エキシビション「Magnet303 | Art Room & Archive」の初日となる2022年12月17日(土)、FLAT BASEで「Magnet303@FLAT BASE スペシャルトークイベント【アート × テクノロジー × エイジウェル】」が開催されました。
ゲストとして登壇したのは、Magnet303を主宰するアーティストのKiNG氏、注目の若手画家でエキシビションに作品を出展する長谷川彰宏氏、そして会場となったFLAT BASEを運営するKDDIウェブコミュニケーションズの代表取締役社長・山﨑雅人。さらにモデレーターとして、Forbes JAPAN Web 編集長・谷本有香氏がトークショーに参加しました。
(左から)谷本氏、山﨑、長谷川氏、KiNG氏
■Magnet303とは?
アーティスト・プロデューサーのKiNG氏が主宰する、過去現在未来を超越していくアートと人を(N次元的視座に)繋ぐ、磁力発生プロジェクト。本イベントでは、「FUTURE VINTAGE=時を結び循環する価値の創出」「AGEWELL×LOST JAPANESE TECHNOLOGY=新・温故知新。日本文化・技術の深淵を見つめ豊かでポジティブな連鎖を醸成」「COGNITIVE DIVERSITY=教養・表現・哲学~新しい共通幻想とN次元的な視座視点の再構築」をキーワードに、会場全体を使って作品が展示された。
企業がアートをビジネスに取り込んで表現するのが、面白いと思った
今回のエキシビションが行われた「FLAT BASE」は、KDDIウェブコミュニケーションズがオフィスの隣接スペースに「SHARE LOUNGE 外苑前」と同時にオープンした、五感を刺激する新たな体験を生み出すイベントスペースです。 トークショーのはじめに、モデレーターの谷本氏よりFLAT BASEのオープンに至った経緯について質問がありました。
谷本:山﨑さんのことは以前から、ビジネスの世界にこういった感性やアート文脈を持たれている方がいると聞いていて、興味を持っていました。なぜ今このような場所を始めようと思ったのか。どのようなきっかけがあったのでしょうか。
山﨑:こういったタイミングはずっと狙っていました。実は非言語的なものがビジネスに影響を与えていると思っていて。これまでアートをビジネス化するとか、アートを使って何かするという文脈はあったが、アートや本、音楽など、裏で支えているものがビジネスに役立っているとはあまり表現されてこなかった。だからそれを、企業が具体的に表現するのが面白いのではないかと思って作りました。
学んで理解するアートと、出会って衝撃を受けるアート体験は全く別次元
谷本:コロナ禍で、今まで携わってこなかった方もアートに興味を持ち始め、購入しようとか、勉強しようという機運が高まってきました。これから学ぼうと思っている人たちが、最初に捉えるきっかけとなるアートは、何を持って正しいのか判断が難しい。初めてアートに触れるとき、どのようなタッチポイントで出会えばいいのでしょうか。
KiNG:認知のダイバーシティというものがあり、人それぞれで視覚・聴覚・触覚と得意な部分が違う。例えばここも、今同じ空間にいると思い込んでいるだけで、違うものが見えたり聴こえたり、人それぞれの認知がある。これはアートと共にあることで感じられるものだと思っているし、自分の中の感覚を知るという意味でアートは写し鏡だと思っている。多次元的にいろんな指標があって、皆さんがどうやってバリエーションを組むのか。“価値”と“価格”は違いますし、それが議論されているけれど、まだ答えが出ていない状況に等しい。もちろんプロフェッショナルとして、資産価値の高いものを専門にされている方もいますが、アートをどのように捉え、楽しみ、楽しみ以上の将来的な価値・価格にどうしていくかを、みんな手探りでやっているのだと思います。
長谷川:アートという単語について考え出すと、めちゃくちゃ難しいので一旦置いておくのですが、アートは基本的に西洋の文脈なので、日本では学ばないといけないという風潮が強い。アートが分からないのは、その文脈が分からないから。だからこそ、過去の文脈を勉強すれば分かるという考えには賛成する。しかし、学んで理解して(アートについて)話せるということと、作品そのものが自分の人生を支えてくれる体験というは別次元の問題であるが、混同されている。自分的には作家だからかもしれないが、たまたま美術館に行ったときにすごい作品に出会えたという体験そのものが一番大事だと思っている。これをどう考えていくかは難しい問題ですが、その2つがあるというのを理解したうえでアートと向き合うと、かなりクリアになると思う。自分がアートを学ぶときに、どちらを大事にしていきたいかだと思う。
山﨑:私はアーティストではないので生活者の文脈でいくと、アート自体をあまり難しく考えないで、どんな感覚でもいいから思った通りの感覚をそのまま持っていればいいと思う。その場にいる人それぞれがそれを持っていて、それ以上のことは何もなくて、合わせる必要もなければ話す必要もない。結果としてアートを見たときには正解・不正解を知りたくなるが、生活の中のプロセスの一つと考えて、途中なんてどうでもいいやとアートを捉えたほうが楽だったりする。いろんな場面でそれらを使って、最終的に何かを生み出すことに繋がるのではないかという捉え方をしていきたい。
ビジネスの視点を広げたいと考えていたとき、隣にあったのがアートだった
谷本:皆さんのお話を聞いていて、主体的にアートを取り込むことができるかが重要なのかなと感じました。しかし、アートというものを美術の授業でしか触れてこなかった人たちにとって、主体的にアートを取り込んでみようと言われても難しい。どのように主体的に、美しいものを美しいと思うのか。もちろん、それはすごく自然な感覚ではあるが、これはアートである!と思える感覚値にはなれない気がしていて。山﨑さんはアーティストでないからこそ特にお聞きしたいのですが、なぜそこの世界の視点を持つことができたのでしょうか。また、プロの2人からもご意見お伺いしたいです。
山﨑:実は私も小学校くらいまで絵を描いていて。あるとき、自分の描いた絵がコンテストで入選したことがあって。でも先生に、親に手伝ってもらったのだろう。子どもがこんな風に描けるわけがない、と言われたことがありました。そこからアートに触れるのが怖くなり、評価されることを気にしてその世界から去りました。上手い・下手と言われながら育ってくると、そこから遠ざかりたくなる。そういうのがずっとあって、しばらくアートの世界に触れてこなかった。
山﨑:そして大人になって、徐々に自分のビジネスが確立していくのが分かったとき、視点を広げるために、もっと目に入らないものを目に入れていかないといけないと考えていた。そのとき、隣にあったのがアートだった。隣にあったけれど、それまでは見て見ぬ振りをしていたんですよね。さらに、アートに関わる人たちとの出会いもあり、自分のビジネスの視野が広がるという体験をした。自分のその体験をなんとかしていろんな人に伝えたいなと思ったのですが、みんな同じく遠ざけたがっていた。私はいろんな出会いにも後押しされ、そっちに振り向いていった。恐れず1歩踏み出すみたいな、そういうきっかけを作れると、実はそんなに遠い存在じゃないことに気づけるのではないかなと。
日本語で育った私たちは、主観的な現代アートに戸惑ってしまう
長谷川:客観と主観の話がありましたが、僕は時間軸が同一である必要ないと思っていて。例えば、その作品を観たタイミングでは客観的に見えていたものが、なぜか分からないけれど覚えていて、10年後、急に主観的に変わる瞬間がある。そう考えたときに、一旦は客観的に見続けることも一つの方法なのかなと。本をたくさん読むとか、美術館に行ってみるとか。あと、かなり極端な話なのですが、アートと名がつくものだけがアートじゃないと思っていて。例えば僕は、手塚治虫や宮崎駿もアートだと思っていて。自分の中でめちゃくちゃ主観化できたものをアートの定義として使うことによって、客観をどう主観として解釈できるかをやり続ける。全てにおいてそういうものなんじゃないかなと。
KiNG:そもそも日本語の言語体系は主語がなくても話せてしまうので、日本人は主体的とか客観的なものについてはぬるっと曖昧。そんな中に欧米型のアート、特に現代アートというものが来たときに、急に主体だったり主観だったりを押し付けられて戸惑っているところはある。だからこそ、日本語というものを母国語にしている我々なりの捉え方というものがあっていいと思っています。しかし、それを頭で切り替えて英語的文脈で考えたときには、必ず主語を持たないといけなくなる。対象がいくつなのか、その空間はどこにあって、時間がどれくらいなのか。それが英語の言語体系なので、その中で見ていかないと評価されないというのが現実にはあって。我々はその中で進んでいくのか、それとも我々なりのまるっとした評価の中での、“何かいいよね”みたいなものの“何か”を突き詰めることがいいことなのか。まるっとしながらも、諸行無常的に変化していくことを楽しむのか。共通幻想をそのまま、どのように非言語化的でありつつも共有できるのか。すごく抽象的な話になってしまうのですが、そういうのもあってこういう空間を作っているんですよね。逆に英語圏の人は(この空間を)どのように感じて、どう英語で表現するのかなと気になりますね。
KiNG:また、今後はアジア圏の人口が増えてくるので、ここ100年で言われていた現代アートと、その先に捉えられるものというのがもしかしたら変わる可能性がある。(エキシビションで展示している)横尾さんの作品も50年くらい前のもので、現在70〜90歳くらいの方から譲り受けています。テレビがそもそもモノクロだったあの時代に、あのカラーは異常な状況。だからこそ、当時語られていたことと現在とでは、また感覚が違うんじゃないかなと。
長谷川:僕も藝大に入学してから、「アートって何?」と友人からよく聞かれるのですが、それに対して分からないと言い続けていて。結局、今も分からないのですが、それでいいと思っていて。そもそも「何がアートなの?」「何でアートに入れないんだろう?」という問題設定自体を一回考えるべきで。漫画だって重曹的だし、文脈がめちゃくちゃあるのに定義を知らなくても読めてしまう。それは、漫画の読み方が身体化しているから。
現代アートは、いかに少ない人数で価値・価格を上げていくかというゲームのようなもの
谷本:ビジネスの部分に引きつけて言うと、SDGsという言葉が出てきて、「私たちもSDGsをやらなくちゃいけない」とCEOの皆さんを悩ませている。ただ考えてみれば、100年以上前から渋沢栄一がSDGs的なことをやっていて。もしかしたらアートに関しても、アートという言葉を使っているから分からないと思い込んでいるだけで、実は私たちの中にはアートというものがあって、自分たちの生活や思考の中に入っている気がするんですよね。ただ私自身、この場にいる1対1の中では理解できるのですが、少なくともここを今の段階で切り取って、多くのNの人たちに記事として出していくときに、現段階でのコンテキストを作らないといけない。御三方に、私はそれをどのようなコンテキストで伝えたらいいか聞いてみたいです。
KiNG:これってすごく面白くて、短中長期的な車輪をイメージしたら良いと思います。例えば、この1年はこのように捉えた方がよくて、おそらく3〜5年はこうなっていくであろう。そして、人口のことを考えて50年、100年したらこう変わるだろうと。逆に言えば、どういう未来を描きたいか逆算して定義つけていって、仕掛けていくのもアートだと思っています。極論、現代アートはターゲットの裾の尾を広げるつもりもなく、いかに少ない人数で上に価値・価格を上げていくかプログラムされているのかなと。そういうゲームとして作られてるのではないかなと。だからそのゲームをゲームチェンジするのか、ルールメーカーになるのか。それは今後、私もやっていきたいなとは思いつつ、それが見えた元年かもしれないです。
今のところそのルールに自分が従う側という意味では、それがサッカーなのか野球なのかラインが知りたいってことですよね。さらに何をやって、球は1つで、どこがゴールで、1点でも先に入れれば勝つみたいな。そういうことを明らかに知りたいってことですよね。それは確固としてあって、ただそれを知ることもインテリジェンスで、それを知るからこそ勝者になる。価値を決める方と表現する方の間にはどうしても乖離があって、その間に入るというビジネスもあるくらいなんです。
表現者、消費者、そして評論家が一体となって文化を作っていく
長谷川:これまで僕が話したのはかなり表現者の視点だったのですが、もちろん表現者だけでは文化はできなくて。表現者、消費者、そして文脈を作っている評論家の三者が一体になっているから、文化というのはどんどん進んでいくと思っています。意外と見えてこないのですが、大事なのは消費者と表現者を作ってくれている評論家だと思っていて、彼らに対しては表現者も消費者もリスペクトすべきだと思っています。あと、過去の価値を作ってきた評論家たちの文章を見ていると、そもそも彼ら自身が楽しんでいるんですよね。グリーンバーグの評論でも、「これらをどうやって体系化してやろうか」みたいな楽しみの悪戦苦闘が見えてくる。価値を作っていくことは、そう簡単にできることではないので、そういうひとつの運動みたいなものがあるといいですよね。
KiNG:確かに今、価格を決める側の人は多いですが、きちんと評論する方が圧倒的に少ないので、そこが問題だと思っています。さらに、感じたことを英語に翻訳して論文化する人も少ない。学術的に言ってしまうと、英語の論文がないと無いに等しいんですよね。そういったところをやっていく人が必要だと思っています。
コロナ禍で生活の中にビジネスが入ってきて、身体性についての文脈が語れるようになった
谷本:山﨑さんはある程度見立てがあって、こういったことをやってらっしゃると思うのですが、どのようなコンテキストで伝えていったらいいと思いますか。
山﨑:この場所はオフィスの拡張でもあり、いろんな人とコラボレーションするスペースでもあるのですが、文脈を作ろうとしたとき、数年前だったら成立しなかった。コロナ禍で生活の中にビジネスが入ってきて、一つの文脈で語られるようになったからこそ、「仕事って辛そうにやらなくていいのかも」「楽しく仕事をするのもOK」みたいな捉え方になってきた。だからこそ、新たなものを取り入れる余白ができ始めたというのはあります。
さらに、部屋の中で閉じこもって様々なことを始めていったからこそ、身体性というものをビジネスの中で語ってもスピリチュアルではなくなってきた、拒絶されにくくなってきたというのはあって。今はそこから振り切れるのか、戻るのかという境目だと思っています。そんな中にこういったものが放り込まれたとき、どう消化していくのだろうと、みんなゲームとして楽しめている時代なんじゃないかなと。そこをプロセスとして吸収できていくと、こういうものがビジネスや生活の中に取り込まれていく中長期みたいなものが見えてくるし、ここでまた呼び戻してしまうと5〜6年前に戻って、「いかに経済合理性が良いものか」とか「価値・価格・効率のようなものの方が優れている」といった経済主義のようなところがぐっと上がった世界に向かっていく。今はその分岐点なのかなという見方をしています。
抽象的なグラデーションこそ日本らしいアート表現
谷本:今、山﨑さんがおっしゃったように、いわゆる身体性を語ってもスピリチュアルではなくなってきた、身体性みたいなところってすごく重要な要素だと思うんです。では、いわゆる身体性みたいなところが重要であったりとか、東洋的もしくは日本的なアートですとか、その辺のことに関してはどのような形で捉えてらっしゃるのか意見を聞いてみたいです。
KiNG:日本人アーティストでは、オノマトペ的な部分を抽象表現している人は割といます。例えば西洋の人が、浮世絵の雨の筋を見て「雨に粒があって線があった」と言っていたように、日本は地政学的にも水のレイヤーが多く、「雨」「霧」「小雨」「霧雨」など、水に関する言語が発達している。映画作品も含めて、そういったものを扱った作品は海外でも評価されていると思います。四十八茶百鼠ではないですが、我々はそこのグラデーションを楽しむみたいなところがあるんじゃないかなと。
長谷川くんの作品もある意味、グラデーションの発明というか東洋的な発明だなと思うし、すごく好きなんですね。もしかしたら西洋的文脈では、いかなかった領域なんじゃないかなと。独特な姿勢感や、抽象・具象みたいなところを彼なりに追求した結果、このような作品になったと思っていて。そして、受け手や評価する側にもそこが非常にヒットして売れているので、その世界観を自分の生活に入れたいと思っている方が直感的にいらっしゃるということは結構ヒントなのかなと。最初に起きた現象をどのように言語化し、体系化し、評論化し、価値として捉えていくかて結構大事で、今回そういう意味でもこのエキシビションができて良かったなと思います。
長谷川:ここ半年〜1年くらいで、かなり自分の中で納得のいく作品ができていて。今回展示している作品は、アクリル板を使っていて、裏表両方に描画しています。藝大ではデザイン科に在籍しているのですが、デザイン科ってIllustratorとかPhotoshopをすごく使うんですね。どちらも概念の発明がめちゃくちゃ多くて、特におもしろいなと思ったのがレイヤーの発明で、レイヤーって上に層があって、また上に層があって、さらに上に層があって、層ごとに絵を描いていく。でも最後に表示するときには、上から一枚にして絵を作っていくという発想なのですが、浮世絵や日本の美術に通じる何かがあるなと勝手に思っていて。一点透視図法の考え方とは違いますよね。
あと、日本庭園など借景の美しさも基本的に内部の空間と外部の空間の二層なんですよね。このように縦のレイヤー層を分けていくというのは、日本の絵画表現ないしは僕たちの視覚的な感覚として結構高いと思っていて。そのようなところから考えても、アクリルの裏表に描くというのもいいなと思って。もちろん描いているときは考えていないですが、描き終わったあとにそう感じている。他にもいろいろ説明の仕方はあるんですが、一つのルートとして話すならそうなるかなと。
直感的にひらめいて表現するアートは、発明に近い
KiNG:そういう意味では、アートは身体表現がまず先なんですよね。直感的にやった行為に対して、脳が後からついてきて言語化する。最初から文字でこういう原理ですってプレゼンして作るものではなく、直感的に表現をやり続けていったときにピンとくるもので。ノーベル賞を受賞する学者も20代くらいでは答えが出ていて、それを証明するのに20年かかって、だいたい40代以上に賞をとるというのはそういうことで。長谷川くんは今25歳なので、これから、直感的に出たきたものが一体何なのかという原理がもっと言語化できて、ひらめいてくるようになるんじゃないかなと。アートって発明に近いと思っています。
長谷川:わざと平凡な言い方をすると、“コンセプトの後付け”だと思っていて。ただ考えるとすごく面白い話で、自分の中で直感的にバンって来たものが、全部後付けで説明できてしまう。なぜかというと、僕は三重県の田舎出身なんですが、山に囲まれた霧が濃いような土地で生まれたという幼少期の原体験があって。さらにデジタル世代なので、タブの構造なんて完全にレイヤーの構造で。今すごく面白いと思う作品も自分の中で深ぼっていくと、絶対に自分の人生の経験とどこかで重なってくる。それが最終的に社会批評になったりとか文脈形成になっていくんだと思います。
山﨑:日本は、アートを身体に入れる仕組みを持っている国だと思っています。西洋の家は外と内を隔てるためにあるのですが、日本家屋は中と外を繋ぐ思想で出来ている。お庭は床に座ってまっすぐ外を見るものになっていて、四季の移り変わりや天候を、全身同じ目線で見るという暮らしをしている。そういった日本独特の仕組みが、まさにアートを取り入れている状態にあると思うし、無意識に身体の中に染み付いている状況なのかなと思います。さらに、漢字自体がすでにアートだと思うし、基本的にはそういうものを全てアートとしていろんな形で取り入れているのは、他の諸外国ではないのかなと思っています。
さらにこの後、会場にいる参加者の質問や感想を交えながらトークショーは終了。
イベントの最後には企画構成作家の板垣響紀氏によるお茶の振る舞いもあり、アート空間の中で美味しいお茶を楽しみました。トークイベントの様子はMagnet303のYouTubeで公開中。ぜひご覧ください。